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zoom RSS 平地の村が、高原の村から、農作業用の牛を借りていた。(昭和29年頃の奈良盆地)

<<   作成日時 : 2010/03/18 22:21   >>

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江戸時代以降は

平地は、新田開発されまくったので

飼料のとぼしい平地の農家は

農作業に牛を使うことが

できなかったのではないか?


そう勘違いする読者もいるかもしれないが

昭和29年頃の奈良盆地では

飼料の乏しい平地の村は

高原の村から

季節的に牛をかりていた。


そのように載っている

昭和20年代の中学校の教科書(地理的内容を主とするもの)を

発見したので

下記に載せる。


ー近畿地方ー

ー農業ー

・・・中略・・・

都市の近くの乳牛

 大都市の近くや, 淡路(あわじ)島などでは,

乳牛をかって, 都会向けの牛乳をしぼっている。

淡路島には, 乳製品向けの大きな工場ができている。



山地の農業

 北西部の山地では, 盆地や, 川がきざんだ谷に,

水田がひらけている。


しかし, 耕地が少ないので, 山村の人たちは,

農業のかたわら, 養蚕をやったり, 山しごとをしたり,

牛をかったりして, 収入をえている。


冬は, 農民の15%が, ほかの地方へでかせぎにいく。


畑では, 麦やサツマイモをつくって, 食料にするほか,

みそ・しょうゆ・アルコールなどの工場に売る。


滋賀(しが)県北部の山地や,

伊勢平野の丘陵地などにも,

養蚕や茶を副業にしている農家が多い。

画像



 南部の山地では, 紀ノ川ぞいに, 東西に細ながい平野があって,

和歌山県としては, 耕地がいちばんよくひらけている。


 有田川の下流にも水田がひらけているが,

そのほかは, 山がけわしく, 谷が深いので,

水田や畑は, ほんのわずかしかない。


水田も畑も, だんだんになっている。

画像



 北西部の高原地方には, 中国の高原地方と同じように,

牛を使っている農家が多い。


夏は放牧し, 冬は舎(しゃ)がいにする。


そして, 子牛をせり市にだして売る。


山間の盆地には, 牛市が定期的にひらかれている。


 水田地帯でも, 水田をたがやしたり, 堆肥(たいひ)をつくたりするために,

牛をつかっている農家が少なくない。


近畿地方ぜんたいとして, 牛が多く, 馬をかっている農家は, ほとんどいない。




 奈良盆地では,

平地の村と高原の村とのあいだに,

かり牛というならわしがある。


一年中牛をかっておくには, 飼()料のとぼしい平地の農家が,

近くの高原の村から, 季節的に牛をかりてくるのである。


かえすときには,

牛のせなかに, ほし魚とか, 豆類とか,

そのときによって

いろいろのみやげをつけ,

金をそえておくっていく。


↑ 『昭和29年9月30日 文部省検定済 中学校社会科用 安部能成編 中学生の社会 土地と生活 地理的内容を主とするもの 上
日本書籍株式会社
中社 7-735

↑ ふりがなについては、ブログで入力できるやり方で入力した。改行、文字の大きさ、太さ、色については、改変した箇所がある。写真は、教科書に載っていたものをそのまま載せた。紀ノ川などの地図は、イメージしやすいように、私がかいた地図を挿入したものである。

伊勢平野、奈良盆地などの大まかな位置に関しては、下記地図参照。
画像


なお

讃岐の借耕牛については

下記サイト参照。


借耕牛(かりこうし)とは、

讃岐の小農家が農繁期に阿波の山間農家から借りていた農耕牛のことである。


讃岐の農繁期が終わると、米などの穀類をお礼につけて返していた。


そのため阿波では米取り牛と呼ばれた。


水田が多い讃岐では耕作は欠かせないが、

讃岐には草地が少なく

牛の飼育は不適であった。



一方、

阿波の山間部(北西部の美馬郡・三好郡と北東部の麻植郡など)には

水田が少なく、

米は貴重な食糧であった。


讃岐の小農家の大半にとっては牛を飼わずに済み、

阿波の山間農家にとっては

少ない食糧を農繁期後の牛の労働で補えた。


借耕牛は

江戸初期には始まっており、

江戸後期から昭和初期に盛んになり、

農機具が普及し始めた昭和30年代まで続いた。



讃岐山脈』(Wikipedia


讃岐では

草地が少なく、牛の飼育に不向きなところが多いのに

江戸時代以降に入っても

借耕牛という方法で

牛耕が行われていたことが

わかる。


もっとも、牛馬耕は、東海、関東、東北地方では、明治時代まで、普及しなかったらしい。

鎌倉幕府時代の中世後期になると、

犁は貴族士豪の手を離れ庶民の中の犁耕として各地に見られるようになって、

農書として最古の清良記には「牛耕」として記されています。


この牛による犁耕は、江戸末期まで畿内において発達しましたが、東海、関東、東北地方では見られませんでした。


 東北における犁耕は、

寛政年間に馬耕のあったことが

横川良介著「飢餓孝」に記載されていますが、

耕起作業が犁によって本格的に行われるようになったのは

明治以降とされています。


 
南部藩では、寛政年中に一時馬が耕起にも利用されましたが、

馬大いに痛み、不宜」とされて中断しました。



第22回・企画展家畜を利用した農作業」』
展示期間:平成16年 4月 6日 〜 6月24日
http://www.pref.iwate.jp/~hp2088/park/kikaku/kachiku_nousagyou.html









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