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zoom RSS 1978年(昭和53年)3月実施 北海道大学入学試験 日本史 大問2

<<   作成日時 : 2014/08/10 23:11   >>

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1978年(昭和53年)3月実施 北海道大学入学試験 日本史 大問2の問題文を載せておく。

北海道新聞 昭和53年(1978年)3月5日(日曜日) 特集 12面に載っていたもの

大問2 次の文章を読み, 設問に答えよ。

 大方泰時心ただしく, 政(まつりごと)すなほにして, 人をはぐくみ, 物におごらず, 公家の御ことをおもくし, 本所のわづらひをとどめしかば, 嵐の前に塵(ちり)なくして, 天の下すなはちしづまりき。

かくて年代をかさねしこと, ひとへに泰時が力とぞ申伝(もうしつたへ)ぬる。

陪臣(ばいしん)として久しく権をとることは, 和漢両朝に先例なし。

其(その)主たりし頼朝すら二世をばすぎず。

義時いかなる果報にか, はからざる家業をはじめて, 兵馬の権をとれりし, ためしまれなることにや。

されどことなる才徳はきこえず。

又大名(たいめい)の下にほこる心や有けん。

中二(なかふた)とせばかりぞありし, 身まかりしかど, 彼泰時あひつぎて, 徳政をさきとし, 法式をかたくす。

己(おのれ)が分をはかるのみならず, 親族ならびにあらゆる武士までもいましめて, 高(たかき)官位をのぞむ者なかりき。

其(その)政(まつりごと)次第のままにおとろへ, つひに滅ぬるは, 天命のをはるすがたなり。

七代までたもてるこそ彼が余薫なれば, 根ところなしと云(いひ)つべし。


 以上の文章は, (1) 北畠親房の著書から引用したものである。

親房は北条泰時の執政を高く評価しているが, 朝廷を重んじ, 荘園領主の利益を擁護し, 高位・高官を望まなかった, というようなことを基準にしているところに, 彼の貴族としての考え方がよくあらわれている。

北条泰時は承久の変後, ( A )の職に在ったが, 父義時の死後執権となり, 幕府政治の中心となった。

親房が「徳政をさきとし, 法式をかたくす」と述べているように, 政務や訴訟を裁決する合議機関として( B )を設置し, また執権の補佐役である( C )をおき, さらに武家として初めてのまとまった成文法である御成敗式目を制定するなど, 執権政治の確立に努めた。

親房は「七代までたもてるこそ」と述べ, 北条氏は七代で滅びたとしているが, ここでいわれている「七代」とは, おそらく義時・泰時・経時・時頼・( D )・貞時・高時の7人を数えたものと思われる。

この北条氏嫡流の家督は, 義時の号にちなんで( E )と称された。

その一人, 時頼は訴訟審議機関として( F )を設置して裁判制度の改善をはかる一方, 宝治合戦によって有力御家人( G )氏を打倒し, 北条氏の支配力を強化した。

その後, 幕府政治は次第に(2) 北条嫡流家による専制体制に変質し, 矛盾を深めていった。

そのため後醍醐天皇を中心とする倒幕運動は成功をみたが, それは, すぐに足利尊氏を中心とする新たな幕府政治の再興という方向に進展した。

(3) 天皇中心の政治を実現しようとする企てはいくばくもなく失敗に帰したのである。


問1 ( A )から( G )をうめるのに適当な語句または人名を記せ。

問2 下線(1)「北畠親房の著書」とは何か。書名を記せ。

問3 下線(2)「北条嫡流家による専制体制に変質し」という事態と最も直接的に関係するものを, 次の語群の中から2つだけ選び, その記号を記せ。

(イ)徳政令       (ロ)下地中分   (ハ)霜月騒動

(二)惣領制       (ホ)内管領    (ヘ)守護領国

(ト)異国警固番役   (チ)摂家将軍

問4 下線(3)「天皇中心の政治を実現しようとする企て」ということに関連し, 建武新政(建武政権)の性格について述べた次の4つの文章のうち, 内容に誤りを含むものを選び, その記号を記せ。

(イ)建武政府の政治機構は, それまでの公家政治と武家政治の両者のあり方を融合, 再編成し, 天皇親政のもとに統轄しようとする点に基本的な特徴があった。

(ロ)後醍醐天皇は諸勢力が対立, 抗争する状態を解決することができず, 幕府を倒したものの, 実質的にその政治機構を残し, 院政や摂関制にも依存せざるをえなかった。

(ハ)後醍醐天皇は醍醐天皇の「延喜の治」を理想とし, 武家政治のあり方をすべて否定して, 政治体制を「延喜の治」のあり方そのままに復活させた。

(二)建武政権においては, 武家勢力は一方的に排除され, 公家勢力の支配が強かったため, 武士達の支持を得られず, 短期間のうちに崩壊した。



ブログなので、入力方法を変更した箇所がある(たとえば、ふりがなは、括弧をつけ、その中に入れた)し、読みやすくするために改行を頻繁にした。

 【北海道新聞に載っていた解答
問1 ( A ) 六波羅探題  ( B ) 評定衆  ( C ) 連署  ( D ) 時宗 ( E ) 得宗 ( F ) 引付衆 ( G ) 三浦   問2 神皇正統記   問3 ハ・ホ  問4 ロ・ハ



どこかの予備校がつくった解答だろうが、少なくとも、平成14年以降の発行の日本史の教科書では、問1( F )の解答は、「引付衆」ではなく、「引付」である。

現在では、「承久の変」ではなく、「承久の乱」ということが普通である。

京都の後鳥羽上皇は, この機会に北条氏をほろぼそうとして武士を集め, 1221(承久3)年, 鎌倉を攻撃させた。

幕府の御家人たちの心は動揺し, 朝廷に味方する武士も現れた。

幕府の危機に直面した政子は, 残った御家人たちを集めて, 幕府側に結集するよう呼びかけた。

この演説によって幕府軍は結束を固め, 朝廷軍を箱根山でむかえ討つという弱気の意見を退け, 京都に進撃した。

戦いは幕府軍の勝利に終わり, 上皇は敗れて隠岐(島根県)に流された。

この戦いを承久の乱という。

 承久の乱のあと, 幕府は京都に六波羅探題をおいて朝廷の動きを監視するとともに, 西日本の支配にあたらせた。

↑『中学社会 歴史』(文部省検定済教科書。中学校社会科用。教育出版。平成10年1月20日発行)p 70, 71
読みやすくするために改行を頻繁にした。

問1( B ), ( C )の解説として、高校の日本史の教科書の該当する箇所を載せる。

義時のあとをついで執権となった泰時は, 頼朝以来の大倉の将軍御所をひきはらって鎌倉の中心宇都宮辻子に移し, 政治の一新をはかるとともに, 新たに時房を連署に任命して執権の補佐役とした。

また政務に練達した武士を選んで評定衆とし, 執権・連署と評定衆の合議によって幕府の政策が決定される態勢をととのえた。
 

↑『日本史B 新訂版』(文部科学省検定済教科書。高等学校地理歴史科用。実教出版。平成14年1月25日発行)p 93 
読みやすくするために改行を頻繁にした。

問1( F )の解説として、高校の日本史の教科書の該当する箇所を載せる。

また裁判制度の整備につとめた時頼は, 1249(建長元)年に御家人の訴訟を専門に扱う引付を設置し, 評定衆から選ばれた頭人のもとに引付衆を分属させて, 裁判を迅速におこなうこととし, 御家人層の要望にこたえた。 

最初, 引付は3番に分かれており, 3人の頭人のもとで分担して事件を扱った。

ここで判決原案を作成して, 評定衆の会議にかけて決定された。
 

↑『日本史B 新訂版』(文部科学省検定済教科書。高等学校地理歴史科用。実教出版。平成14年1月25日発行)p 95 後半は引付の解説である。
読みやすくするために改行を頻繁にした。

評定衆:鎌倉幕府の政策を決定する武士

引付:御家人の訴訟を専門に扱う機関

引付衆:引付の人々

である。

1995年(平成7年)の北海道大学の入試の前期日程の大問1の(11)にも、「引付」を書かせる問題が出題されている。

その問題は
大問1 次の設問に答えよ。
(11) 鎌倉幕府は御家人組織を自律的に維持するために, 裁判制度の充実をはかった。

その一つとして『御成敗式目』を制定し, 裁判の基礎となる法を明示したが, さらにその後, 裁判の専門機関を設置して, 訴訟の公正で円滑な処理に努めるようになる。

この裁判の専門機関とは何か。

である。

そのときの教学社の解説は
(11) 裁判の専門機関は引付であり, それを構成するのが引付衆である。


である。

問3の解説として、高校の日本史の教科書の該当する箇所を載せる。

蒙古の襲来が失敗したのちも, 幕府は警戒をゆるめることができず, 異国警固番役が武士たちの生活を圧迫した。

幕府では北条氏の地位がさらに強化されるとともに, もとからの御家人と得宗家(北条氏)の家来(御内人)の対立が激化した。

こうしたなかで1285(弘安8)年に有力御家人安達泰盛の反乱がおき, 北条氏の専制に不満をもつ幅ひろい御家人層がこれに加わったが, 敗北におわり, 御内人を代表する内管領平頼綱の勢力が強まった(霜月騒動)。

ここに北条氏の覇権が確立し, 得宗の絶対的権威のもとに, 内管領が幕政を主導するようになった。
 

↑『日本史B 新訂版』(文部科学省検定済教科書。高等学校地理歴史科用。実教出版。平成14年1月25日発行)p 109
読みやすくするために改行を頻繁にした。


問4の解説として、高校の日本史の教科書の該当する箇所を載せる。

建武の新政健のもとでは, 中央には, 天皇のもとに記録所・雑訴決断所・武者所・恩賞方などの諸機関がおかれ, また国々には国司と守護とが併置されて, 公家・武家を問わず, 天皇の側近が登用された。 


記録所は重要政務を扱う政権の中心機関。

雑訴決断所は一般の訴訟, 武者所は京都の警備, 恩賞方は論功行賞にあたった。

↑『日本史B 新訂版』(文部科学省検定済教科書。高等学校地理歴史科用。実教出版。平成14年1月25日発行)p 109
読みやすくするために改行を頻繁にした。

ついでに、中学校の歴史の教科書も載せておく。

これを建武の新政という。

しかし, 新政は武士の協力で実現したのに, 政治は公家に有利に進められた。

↑『中学社会 歴史』(文部省検定済教科書。中学校社会科用。教育出版。平成10年1月20日発行)p 82
読みやすくするために改行を頻繁にした。

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