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zoom RSS 1901年(明治34年)頃のプリンストン大学は楽な大学だった。

<<   作成日時 : 2015/01/05 18:26   >>

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1901年(明治34年)頃のプリンストン大学は楽な大学だった。

 
ウィルソンが、其後大学総長若くはニュージャージー州知事として試みたる奮闘や、乃至其大統領となつてからの諸般の改革、並に今次の国際連盟の大活躍に至る迄、彼のデモクラシーに対する信仰を外にしては到底此人の心理状態を解釈することは出来ない。

大童となつて諸種の問題と戦つた彼ウィルソンは、教授時代から社会的正義に対して燃ゆるが如き情熱を持てる予言者であつたのである。


第三章 大学総長

一 学風の改革

 ウッドロー・ウィルソンは生来の革新家である。

1902年、彼が選ばれてプリンストン大学総長の椅子に着くや、其手は直ちに革新に向つて伸ばされた。

大学総長としてプリンストン大学を革新し、知事としてニュージャージー州政を革新し、更に、大統領として米国の政治を革新せる彼は、今や国際連盟と、講和会議に依つて、世界の政治を革新せんとしてゐる。

洵に是れ一世の偉観ではないか。


 ウィルソンが総長の任に就いた頃のプリンストン大学は「米国第一の愉快なる田舎倶楽部」と綽名された程に、楽な学校であつた。

学生は多く米国富豪の子弟であつた。

彼等は此学園に於て真面目な学問をすると言うよりも、実業界に這入る前の準備的4年間を此の学園に楽まふと言ふ心掛けであつた。

学問の府が社交倶楽部の綽名を受けるのは決して名誉ではない。

其の初めに於ては真面目なる学生が孜々として勉強してゐた時代もあつた、

けれども。其後富豪子弟の集合所となるに従つて学問勉強などはトンと顧みられない風潮を生じてゐた。


 新に総長となつたウィルソンが此のやうな放漫な学風を其儘に看過しなかつたことは、言ふ迄もないとであつた。

彼の真面目な頭脳と強固な意志とは直ちに是れが改革を断行することであつた。

旧時の教育思想の不満足なるを看取して、教育界に「新時代」を宣言せる人が、ハーヴァード大学総長エリオット博士であるならば、プリンストン大学に於て、新思想と新題目とを包含せる新教育系統を建設樹立せる人は実に我がウィルソンであつたのである。

而して此等の新思想と題目を組織按配し、其の関係と順序とを適切ならしめたる者も亦彼れウィルソンであつた。


ウィルソンの改革に成れる教授組織の一異色は、彼が課目選択研究の範を示したことであつた。

即ち此選択方法に依る時は幾十個の課目総てに通じて、生半解の知識を有せしめざる代りに、或る程度の範囲内に於ける課目に就て、可なり豊富なる知識を与へることになるから学生は或る一定の目的に就て充分なる準備をすることが出来たのであつた。


二 所謂薫陶制度

 ウィルソン総長の第二の改革は所謂薫陶制度の創設であつた。

従来のプリンストン大学の教育は、単に1週15時間、大学の講堂で講義をするだけであつて、其余の150余時間を学生が如何に暮さうとも、其れ等は殆んど無関係の状態に放置されてあつた。

余時に亘るが我国の帝国大学の如きは単に最高の学府として存するのみであつて、品性の陶治所謂薫育の如きは其関する所ではない。

品性の陶治と言ふやうなことは高等学校以下のことであつて、大学は単なる学問講究、或意味から云へば学問切売の場所たるに過ぎないことになつてゐる。

唯だ中に品性高尚の学者があり、強く光る人格の教授があつた時に於いて、学生は偶然其感化を受くると言ふ位の程度に留まるのである。

併乍ら大学は所謂最高の学府であるからして、是れも強ちに排斥すべきものではないかも知れない。

唯だプリンストンの如き米国大学は、学生の年齢が、恰も我国の高等学校の生徒位に当つてゐるから、其品格陶治に就ても、自ら是れに対する方法を必要としたのである。


 ウィルソンは玆に見る処があつて、所謂薫陶制度を始めた。

彼の主張は、大学が単に1週15時間の講義のみに依つて学生と接触するに留まるのは甚だ不充分である。

其の教育をして徹底せしめるんが為には、薫陶の任に当るべき青年教授と学生とを、学校以外に於ても、常に接触せしめて、彼等の読書、社交、及び研究の助言者となり、指導者とならしめねばならぬと考へたのである。

此の薫陶制度の設置は、年々約20万円近くの資金を要したけれども、其結果は殆んど不思議な位の大成功であつて、間もなくプリンストン大学の一大特色となるやうになつた。

プリンストンは最早単に講義と試験と暗誦との学校ではなくなつた。

幾百人の学生は、青年教授の啓発と指導の下に、愉快なる社交を楽しむ傍ら、適度の研究を続けるやうになつて、プリンストンの学園には生々たる新生命の光が流れたのであつた。



ウイルソン』(福田吉蔵。民友社。大正8年)p 26〜31
ブログなので読みやすいように改行を頻繁にした。
句読点などの誤植があるが、そのまま入力した。
漢字は、今の漢字に直した箇所がある。ブログは横書きなので漢数字を算用数字に直したところがある。

1901年(明治34年)頃のプリンストン大学は、楽な大学(いわゆるレジャーランド)だったことがわかる。

なお、1週15時間しか講義がないので、プリンストン大学の大学生は、週5日で計算すると、1日3時間の講義だけですんでいたことになる。

改革後も、1週15時間しか講義がないので、楽だったのではないかと思われる。

なお、『ウイルソン』(福田吉蔵。民友社。大正8年)は、ウッドロウ・ウィルソンをほめたたえる趣旨の本であるようだ。

なお、プリンストン大学が、富豪の子弟の集合所になっていたのは、米国の一流の私立大学では当たり前のレガシーへの優先入学権が原因かもしれない。


とくに一流の私立大学ではレガシー(Legacy)という、卒業生の親族・子孫が優先的に入学できるシステムがあり、アイビー・リーグでは新入生の10%から15%がこれにあたるといわれている。

一流大学にとって卒業生(多くが非常に高い地位に就き影響力を持っている)は、多大な寄付金を与えてくれ、ビジネスや研究機会をもたらし、大学の宣伝塔にまでなってくれる有難い存在である。

しかし「由緒正しい血統」に生まれたというだけで受験に有利であるレガシーは、富豪階級が何世代にもわたって政治経済にのさばり続ける要因だという批判も多く聞かれる。


↑「アメリカにおける入学試験」のWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%85%A5%E5%AD%A6%E8%A9%A6%E9%A8%93

トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者であり、第28代アメリカ合衆国大統領である。

↑「ウッドロウ・ウィルソン」のWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3

ウィルソン大統領は、国際連盟の設立を提唱しておきながら、肝心のアメリカ合衆国は国際連盟に加盟せず、国際連盟を弱くした人物として、有名である。


日本では、このことは、中学校の歴史の教科書に載っているし、アメリカ合衆国のウィルソン大統領が、国際連盟の設立を提唱しておきながら、肝心のアメリカ合衆国は国際連盟に加盟しなかったことは、公立高校入試によく出題されている。


1919年, 講和会議がパリで開かれた。

会議は, アメリカのウィルソン大統領の原則をもとに, アメリカ, イギリス, フランスを中心にして進められ, ドイツとはベルサイユ条約が結ばれた。


ウィルソン大統領が, 1918年1月に発表した14か条の講和の原則。

国際連盟の設立, 秘密外交の廃止, 軍備縮小, 民族自決などが示された。


講和会議では, 国際連盟の設立も決まった。

国際連盟は, 世界の平和を守り, 国際協力を進める史上最初の組織で, 1920年, 42か国の参加で発足し, スイスのジュネーブに本部を置いた。

しかし, アメリカは議会の反対で参加せず, イギリス・フランスなどの大国を中心に運営された。


中学社会 歴史』(教育出版。文部省検定済教科書。中学校社会科用。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月10日印刷。平成10年1月20日発行。17教出・歴史762)p 228, 229
ブログなので読みやすいように、改行を頻繁にした。
第1番目がp 228の本文、第2番目がp 229の脚注の「アメリカのウィルソン大統領の原則」の説明であり、第3番目がp 229の本文である。
なお、「アメリカのウィルソン大統領の原則」は、高校の世界史の教科書では、「十四カ条」といわれている。

したがって、プリンストン大学の改革はあまり効果がなく、相変わらず、楽な大学のままだったと考えた方がよい。

実際、改革後も、1週15時間しか講義がなかった。


せっかくだから、ハーバード大学のエリオット博士(=チャールズ・W・エリオット)について、補足しておく。


チャールズ・W・エリオット(Charles William Eliot、1834年3月20日〜1926年8月22日)とは、アメリカ合衆国ハーバード大学の19世紀から20世紀にかけての学長である。


1869年にハーバード大学の学長に就任。

その後、1909年にかけて約40年間学長の地位を務めた。

在任中にエリオット改革と呼ばれるアメリカ高等教育の改革を行い、他の大学にまで影響を及ぼした。

それまでのアメリカの大学の復唱を中心とした授業からの脱却を図った改革の内容は多岐にわたり
 ・それまでのほとんど必修科目だったものを自由選択制にしてカリキュラム改革をはかった。


・・・中略・・・

といった改革を行っている。

これに対しては教師と学生の関係がうまくいくようになったとして成功を収めたと評価される一方で、モリソンは自らの「ハーバード大学の三世紀」の著書でエリオットを批判するなど、評価と批判が両方行われている。

↑「チャールズ・W・エリオット」のWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BBW%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88

ハーバード大学のエリオット博士(=チャールズ・W・エリオット)は、ハーバード大学の大学生の学業を楽にした人物であることがわかる。

以上をまとめると、少なくとも、このころのハーバード大学やプリンストン大学では、大学生の学業が楽であったことがわかる。

もちろん、大学生の学業が楽だからといって、それが悪いということには直結しない。

ただ、このころのハーバード大学やプリンストン大学では、大学生の学業が楽であったという事実があったのに、それが今の日本ではあまり知られていないので、書いただけである。


せっかくだから、2013年(平成25年)頃のハーバード大学などの大学生の生活実態がわかるものを引用しておく。


そもそも普通の大学に行く方が圧倒的に薬物中毒になったり飲酒運転で事故る確率高いだろうし。

ハーバード卒業目前に酩酊状態で道を渡ろうとしてなぜか港に落ちたりするんだから人生はわからない。


ではなんでそんなに士官学校に子供をやりたがるのか。

ノブレスオブリージュ?

それならハーバードだってオックスフォードだって構わないじゃないか。

むしろ一般にはそのほうがとおりが良いだろう。

大学を終えて政治家や大企業のCEOにでもなればいい。

寄付した金で名前のついた病院や図書館が建つ。


だが親心とすれば、授業料も生活費も浮く上に生活態度が乱れていない環境はいまどき値千金。

普通の大学生のようにパーティ三昧でビール頭から浴びて泥酔しゲロの隣でザコ寝から目覚め、冷えきったピザの食い残しを朝飯代わりに齧り温いビールで流し込んだあの旨さが忘れられない、などという不摂生とは金輪際無縁である。

普通の大学に通ったことのある親なら、子供に同じ轍を踏ませたくないと考えても不思議はない。



ウエストポイント陸軍士官学校: 親が子供を入れたい学校』(March 11th, 2013 in Honor)のHP
http://navalacademy1.com/honor/westpoint.html

ただ、ハーバード大学などの大学生全員がこのような生活をしているわけではないだろう。

世の中にはいろいろな人間がいるので、周囲に合わせないで真面目にやっている大学生も中にはいるだろうと考えて、このように書いた。










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